悟りを開いた後に厄介事が相次ぐ理由

(悟りのようなものを開いたあなたへ)

 

愛や祝福そのものみたいになるが故に、悟りを試すような出来事がリズミカルに起こる。

わたしもそうだったけれど、おそらく多くの人はここで一回、軽やかな悟りの世界から顛倒夢想(幻想の世界)に引き戻される。

 

どれも悟り以前ならば耐えられなかったであろう強力で刺激的なもので、中には未解決のまま記憶の手文庫に押し込んだままになっていたような事件のリフレインみたいな事象もあって、動かざる動かし手の存在を感じてしまう。

これをもっと客観的にいえば、あなたが表明するしないにかかわらず、悟りを開いた人を世界は放っておかないということだ。

あなたが「放っておいてほしい」と望まない限り。

 

すべてのものの中に祝福を感じ、完璧性を見抜ける智慧を思い出しているあなたは、そういった苦しみを苦しみとして体験しながらも、かつてのように苦しまない。

何にフォーカスをすればいいのかわかっているし、その状況が贈られた最適な意味も与えることができる。不要なら過ぎ去ったものの属性を付与して送り返すこともできる。選択できるのだ。

 

「讃美歌、漏れてますよ?」

思わずにやけてしまう。

どう邪推をしても、その背後には計算しつくされているとしか思えない好意と愛が何層にも重なっている。神が隠す気がないのか、それともこちらの慈眼のせいなのか。※般若波羅蜜多(智慧)を思い出した後に見える世界があまりにもそれまでと違うので、それを見る眼を慈眼(じがん、じげん)と呼ぶことにする。

それはすごく、ああ心から「どっちでもいい」。

そして真実は、そのどちらでもあり、またどちらでもないものでもある、ということ。

 

悟りが災いを呼んだのではない。

「災い」ならば、なぜ今の今まで待っていてくれたのか。ランダム且つ自由な属性を持つお前はどちらかといえば悪意を感じることの多いタイミングで訪れるのが常ではないか(笑)

なぜ今回は待っていたのだ?

 

そうではなく、他でもないあなたが悟りをより深めたくて、試したくて現じさせたというほうが正解に近い。まだまだこのへんの働きは無意識的だ。

 

たとえば、この状態のひとは、長年審判台からテニスの試合を見ていたので球筋から試合展開がある程度予想できる人。ほんとうは自分もプレーヤーだったのだけれど、すっかりその時の感覚は抜けていて、それが今コートに下りてプレーヤーに戻ろうとしているところ。わかる、わかるんだけど、身体が追いつかない。でもわかっているからたまに絶妙すぎる決め球が無意識的に出る。

 

こうして、より多くのパターンとそれへの対応をあらゆる次元にわたって思い出し、より完全な祝福の準備をしているのだな、ああそうなのだな、と実感する。

「思い出す」というのは何にも勝る魂の喜びだ。

 

 

あなたの悟りに幸あれ。

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