ブッダが言わなかったこと「退場させてない」

 

今残っているわたしの最高の教えとされる経典によると、わたしが五千人の傲慢な修行僧を退場させた上で、残った人たちや神々に「悟りとはあなたたちに到底理解し得ない難解極まりないものである」とか「今まであなたたちに説いた教えはあなたたちを導くためのたとえ話だった」とか言ったことになっているみたいだけど、既に序盤からおかしいとは思わないか?

正直「冷たいな」とは思いました。でも悟りを得た仏のやることは理解し難いものなんだろうな……と思って、そういうものとしてとりあえず飲み込んでいました。

(笑)そうだね。あなたは淡い違和感を持ち続けてくれた。わたしに恋い焦がれ、経典の中にわたしを探し続けてくれたが故に。自分の好きなアイドルや俳優のことを深く愛し理解しているファンというのは、スキャンダルが出て世間が「本性を表した!」と大騒ぎをしても「あの人がそんなことするかなあ……?」と疑問を持つ。

さて、なんでわたしが、何かを求めてわたしの教えを聞きに来ている修行僧を退場させなければいけないのだろうか?その人たちは「自分は悟っている」と勘違いしていて傲慢な人たちだったから退場させられた、もしくはわたしが「今から素晴らしい教えについて話すよ」って言ったら「いやいやもう自分たちが知っている以上に素晴らしい教えなどあるはずがない」って言って自分から去って行って、わたしが「止めるな!行きたいやつには行かせておけ」みたいに言ったことになってるんだっけ。修行僧がかわいそう。わたしがそんな不安と恐怖にかられた王様みたいなことをするだろうか。

仏ならこう考える。彼らをそうさせたのはわたしの問題である、と。だから去らせるどころか「もっと近くに来なさい」と言う。仏の教えを学んでそこまで良い気分になっているのなら、どこがそんなに良いと感じているのかをぜひ語り合いたい。同じおもちゃを心から楽しんでいる者として。

また過激な御言葉を……。

いやいや、もっと過激でしかも真実ではない言葉をあなたがたは信じているではないか。「悟りとはあなたたちに到底理解し得ない難解極まりないものである」だよ。なんでそんな嘘を言わなければいけないのか?しかも、修行僧が去った後に残ってくれた聞く耳を持つ人たちにこれ言ったことになっているんでしょう?ひどすぎやしないか?どうしてわたしが悟りを得てからそれまでの人生でやってきたことを自分から全否定するようなことを言うだろうか?

いいかい?わたしは愛(慈悲)のないことは言わない。

滲み出る慈愛から考えて矛盾することはわたしの言葉ではない。

たしかにたとえ話もたくさんしたけれど、それを「じゃあ今までの教えはすべて嘘だったんだ」「もっと優れた教えがあるに違いない!」と勘違いさせる原因になりかねない危険を冒してまで皆に告げる必要がどこにあろうか。それを告げることは愛だろうか?愛する我が子のように愛おしい人々に、わたしがそのようなことを言うはずがない。執着を離れて自由になって欲しいというわたしの思いと矛盾している。

 

今こそ言おう、般若波羅蜜多、悟りとは、決して壊れない飽きない、遊べば遊ぶほどにどんどんおもしろくなっていき、天にも昇る心地にさせてくれる最高のおもちゃである。そしてそれはあなたがたの中にあり、誰しもが持っているものである。輪廻の始まりから終わりまであなたがたが携えているものである。

 

わたしは、自分の言葉が機能しなくなることも予期していた。しかしそれは、教えが使い物にならなくなるということではなく、時代背景や人々の生活環境の変化、価値観の変遷などから、そのままの言葉では機能しなくなるだろう、ということである。これは存在するあらゆるものは変化するという宇宙の法則である。例えば今あなたがたが持っているスマートフォンが500年後もそのまま使い物になると思うか?

ならないと思います。

しかし通信や意思伝達のすばらしさが色褪せるわけではないし、またスマートフォンの材料となっている物質たちが価値を失うわけでもない。あなたがたは物質についてはこのことをよく理解しているのに、なぜか真理を解説した言葉についてはいつまでも1000年以上前のものにしか価値を認めない。うまい現代語訳が出ても嗜好品のように扱う。これはわたしに限らず、すべてのブッダや目覚めた人の言葉が同じ扱いを受けている。そしてそれが今世界に悲劇を生んでいる。

さらに強力にわたしの言葉の機能を封じ込めてしまったのは、他でもないわたしを思う人々であった。わたしが同じ土を踏み、同じ空気を吸っていた同じ人間であったということを忘れ、わたしを神格化してしまった人々がそれである。後世わたしが遺した言葉とされたものにはわたしが語っていないことが多く含まれるのはよく知っているだろう。端からわたしの教えを曲げようとする教えや、わたしの教えを使って人々を統治しようとした者が創作した教えや、わたしの教えの間違った解説までもがすべてわたしの言葉とされた。

自分を灯明とすれば、法が見える。それを辿れば何がわたしの言葉なのかは一目瞭然なのだが、わたしを神格化した人々はわたしの言葉に疑問を持つことを許さなかった。そして明らかにおかしな言葉でも、それに疑問を呈しようものなら「悟りを開かれた御仏は我々凡夫の到底知りえない深い御心があってそのようなことを仰ったのだ!」「御仏の深い御心がわからぬ愚か者めが!」と批判された。これまでもあなたのような人はたくさんいたが、皆そのようにして“殺され”た。これは文字通り殺された人もいる。馬鹿げている。わたしの心がわかっていないのはその人たちのほうであり、愚か者はその人たちである。

わたし自身、世界への強い疑問がすべての始まりだったのになぜそのわたしが自分の教えに疑問を許さないのか。矛盾している。

教えても到底理解し得ないものは教えられないではないか?それを教えることに何の意味があるのか?矛盾している。

その人たちはわたしの名を使ってわたしの教えを無力どころか多くの場合有害にしてしまっている。それは明らかな毒とわかっているものを「偉いお医者様が薬と言っているのだから」といって飲めというようなものだ。苦しいものは毒なのだ。だからわたしは最期に「自分を灯明とし、法(わたしの教え)を照らして見なさい」と言ったのだ。本来あるがままで仏であるあなたがたは既に答えを知っている。自己を灯明にすることができれば、人は誰しも自在なる目で法を観ることができる。これが観自在である。真理の妙音を聴き、その目で有象無象あらゆるものに祝福を観る者こそ観自在菩薩であり、ブッダである。

覚えておきなさい、疑問を向けることを許さない仏など今も昔もこれからも存在しない。仏はあらゆる疑問を受け入れ、それを持ち主が悟りに近づく体験へと昇華する。仏とは愛そのものなのだから。

あなたがたと分裂したところにある難解な真理や、遥か遠くにいる仏の存在といつ訪れるかもわからないそれによる救済を説く仏など今も昔もこれからも存在しない。仏は何の助けも借りずにそこに常に在り、あなたがたすべての生命が仏と一体であることを思い出させようとする。仏とは愛そのものなのだから。

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