ごみがかわいそうで泣いていた幼少期

幼い頃は、涙を流さない日はないくらい涙もろい、なよなよした子どもだった。それは、わたしを男らしく育てたい父をひどく心配させたようだった。

 

「多感で繊細な子だった」

という言葉でまとめてしまうと、過去を美化した安い自分語りみたいになってしまうから、ここはきちんと説明しておきたいのだけど、わたしは毎回きっちり、寂しくて、怖くて、悲しくて泣いていた。

 

さすがに、涙を流した原因を全て覚えているわけではないけれど、わたしをよく泣かせたのは、ごみたちだった。

お菓子の袋、キャラメルの外箱のフィルム、ガチャポンのカプセル、包装紙、空き缶など、即ごみ箱に行く運命を持ったものたちを見て、よく泣いた。

 

これはあと付けではなく、毎度涙を流すくらい悲しかったから覚えているのだけれど、わたしには中身が歓迎されてパッケージが捨てられることが理解できなかった。どっちも愛しかった。

それがもたらされた胸躍る光景のなかでは、外側も内側も区別はなく、一体として喜びの要素だったのに、なぜ手に触れた瞬間、分離、区別が起こってそれらが裁かれなければいけないのか、その価値とごみが分かれる間隙が理解できなかった。少なくともごみ箱はそんなに楽しそうな場所には思えなかった。

 

「なら、ごみは捨てなくてもいいよ」

なんて教える親はいない。たちまち家がゴミ屋敷になってしまう。

母は苦労したことだろう。たしかに、「いい加減捨てなさい!」と叱られることが多かったのは記憶している。

 

だから、絶対に外ではごみを捨てなかった。ごみ箱に捨てられるだけでも辛いのに、外のごみ箱に捨てられては寂しいに決まっている。

「どうせ捨てなければいけないのなら、せめて自分の手で、きちんとお別れをしてから我が家のごみ箱に捨てる」

というのが、記憶している限りわたしが人生で一番最初に持った“こだわり”だった。

 

そんなわけで、親が外のごみ箱に捨てたものでもよく目を盗んで持ち帰って家のごみ箱に捨てていたし、風に飛ばされたりして“行方不明”になったら必死に探した。そして見つからなかったら泣いた。

 

自分の所有物だけではなく、折れてしまった菜箸、割れてしまった茶碗……などにも同じような感情を抱いてよく泣いた。なぜそれらがごみ箱に行かなければならないのか、理解できなかった。

だから、よくそれらを拾っておもちゃにした。

当時のわたしは、お人形劇のような遊びが大好きで、可変式のストーリーをいつでも持っていた。ストーリーはいくらでも拡張や組み換えができるので、その中ではどんなものでも居場所を割り当てられた。

例えば折れた菜箸は、正義のヒーローの武器や、悪の帝王の待つ最後の決戦の地の手前にある地獄の底まで続く深い断崖にかかる橋になる。割れた茶碗は悪の帝王の玉座になる(尖っているのがすごく良い感じ!)。

さすがに、割れた茶碗はまずいと思ったのか、よく遊んでいるのを取り上げられた。

 

母が、割れた茶碗やいらない茶碗を捨てるときに土間に叩きつけて徹底的に粉々にするのが、大きな音も相まって毎回すごく怖くて悲しかった。

当時は母をすごくヒステリックな人だと思っていた。ああやってストレス発散をしているのだと、そうしなければならないくらい、大人は子どもに理解し得ない鬱憤を抱えているのだと思って飲み込んでいた。

 

しかし、今思えば、あれはわたしがごみ箱から遊べそうな欠片を拾って怪我をしないように、という母の思いやりだったのだ。

 

また、そうやって拾った“おもちゃ”たちは、よくおもちゃ箱から姿を消した。わたしは自分を「よく物をなくす子」だと思っていたが、あれも母が隠れてこっそり捨ててくれていたのだと思う。そうでなければ神隠しだ。

 

 

この涙もろさは、父によく「男のくせに!」と否定された。自分でもいつも「まずいな」と思っていた。直さなきゃ、と。

実際、日常生活になかなかの支障があった。とにかく人の目が痛かった。いつまでもごみを持っている子。飛んでいったごみを見て泣き出す子。ちょっとしたことで気がつけば目を潤ませている子。

また、他人のものにまでこの感覚のセンサーは反応してしまうので、男の子たちの遊びになかなか馴染めず、どちらかといえば女の子とばかり遊んでいたように記憶している。これが近隣の同性からなかなかの反感を買った。

 

 

 

これが、わたしの最初の頃。

中学に上がるくらいまで、この“癖”は直らなかった。

 

 

 

 

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