長州五傑を知っているか

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当時、海外渡航が国禁として固く禁じられている中、こっそりとロンドンへ渡った5人の長州藩士がいた。通称“長州ファイブ”。とにかく真面目で勤勉な東洋人に現地の人は驚き、誰ともなく彼らのことをそう呼ぶようになったという。彼らについて、僕の持っている薄っぺらい知識で語ってみたいと思う。長くてオチもない話だから、退屈MAXな時にでも読んでもらえればうれしい。

密航までの道のり

5人とは井上聞多、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)のことだ。彼らの密航の目的は、西洋の軍事技術を学ぶことだった。

もちろん、上記のとおり当時日本は絶賛鎖国中で、さらに「外国人を徹底的に追っ払え!」の攘夷ムードがムンムンだったので、海外渡航は国禁として固く禁じられており、いくらイケイケの長州藩といえど、さすがにこの計画にはかなり慎重だったようだ。

でも、この時の藩主はあの人だったんだ。

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毛利敬親公だ。彼についてはこちらの記事で説明しているので参考にしてほしい。

彼は当時としては珍しい非常にニュートラルな考え方の持ち主で、一部の家臣達の間でこの計画が持ち上がった時も、「そうせい」って言って密航を許したんだ。つまり、藩主のOKが出たので、この国禁破りの密航は“長州藩の内命”ということになる。

まず、内命を受けたのは井上、山尾、野村の3人。……だが、当然そんなにスムーズにいくはずがない。とりあえず藩から3人には渡航費用として600両が渡されていたが、いざ江戸の駐日イギリス総領事に相談に行くと「一人当たり1000両はいる」と言われる。

しかも江戸で「俺も俺も」って2人(伊藤と遠藤)が増えちゃったもんだから、×5で5000両。ちなみに、ちょいちょい変動するので現代の貨幣価値に換算するのが難しいといわれている“両”だが、1両はだいたい10万円くらいらしい。僕なら諦めて腹を切る。

でもこの人たちスゴイ。諦めなかった。当時、長州藩は倒幕の為に銃砲を購入する資金として1万両を確保していたのだけれど、なんかその情報をどこかでキャッチ。すぐさま藩の軍事関係の全権を握っていた村田蔵六(大村益次郎)のところへ駆けつけ、

「5000両貸して下さい。貸してくれなければ今ここで腹を切ります」

みたいな感じで、無理矢理5000両をGETする。

いざロンドンへ

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なんだ、うまくいったじゃん♪

……まさかまさか、毛利敬親公の「そうせい」には、ひとつ条件があった。

「本当に人間を密航させたら、さすがにバレちゃった時ヤバいから、5人を荷物として出荷する

この時点で、彼らの扱いのレベルは格段に下がるのだが、途中、経由先の上海で彼らの運命は決する。

当時の上海は、東アジア最大の西欧文明の中心地として発展していた。とりあえず彼らは上海に着いた瞬間、こう思う。

「え、攘夷とか絶対無理じゃん……」

彼らの目に映ったのは、江戸とは比較にならないくらいに発展しまくった文明社会の姿だった。港には見たこともないような巨大な軍艦や蒸気船が100艘以上もあるし、こんなの到底日本が勝てるわけがない。

ひとまず彼らは、今回の渡航で世話になっているジャーディン・マセソン商会の上海支店長と面会をする。この時に「君たちは何のために洋行するの?」って聞かれて「海軍を研究するためです」って答えたくて「ネイヴィー」って言いたいのを間違って「ナヴィゲーション(航海術)」と言ってしまった人がいたんだ。これが、

「あ、なーんだ。船乗りになりたい人たちなんだ」

と理解されてしまう。

これによって、ロンドンへ発った彼らの船上での扱いは水夫のようなものになった。彼らは「ジャニー」とバカにされながら、過酷な労働に耐えたという。シゴかれてるっ!5000両も払ったのにシゴかれてるよーっ!

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ロンドンでの彼ら

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藩のお金で来ている、という意識からか、彼らはそれはもう勉強熱心だったという。その勤勉で真面目な姿はロンドンの人々を驚かせ、誰ともなく彼らのことを“長州ファイブ”と呼ぶようになった。ちなみに、今でもロンドン大学には勉強熱心の見本として彼らの石碑が立っている。

ところが、留学から1年が経とうとしていた時に事件が起こる。

彼らは現地の新聞で、

「なんか日本のチョーシューとかいうところからウチの船が砲撃を受けたから幕府に抗議したけど、幕府がイマイチな対応しかしないから、もう連合国で報復攻撃しに行く」

というニュースを見て驚愕する。

「無理無理!絶対フルボッコにされるって!!」

これは「長州ファイブ」という映画での描写だが、ここで5人は大モメ。

「すぐに帰国してこのバカな攘夷をやめさせないと!」

「は?藩から5000両も出してもらってここまで来たのに、1年そこらで帰国するとか敬親公に顔向けできないだろ!」

……で、結局井上と伊藤だけ帰国することになった。

帰国してからの井上と伊藤

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彼らはまず、渡航の段取りをしてくれたイギリス領事館のガウワーに面会。彼から「イギリス、フランス、アメリカ、オランダの連合艦隊が下関を砲撃する計画が進んでいる」と聞かされる。

2人はさっそく公使と会見し、「自分たちが帰って藩論を変えるから」と停戦講和を懇願する。その結果、「とりあえず他の3国も了解してくれた。藩主に手紙書いたからこれを渡して、君たちもがんばってくれ」と言われる。

そしていざ、藩に帰ってみるとやっぱり「たとえ刺し違えてでもやったる」という藩の方針が固まっていた。彼らは藩に、いかに相手が強大か、つまりこの戦がいかに無謀かを、自分たちが見てきたロンドンの発展ぶりなんかを交えて一生懸命説明するが、

「ウソつけこのホラ吹き野郎」

「腰抜け」

と嘲笑される。当然、当時の過激なムードの中でそんな水を差すようなことを言うもんだから、彼らは攘夷派から命を狙われるまでになる。

しかし、それでも彼らはめげなかった。

「あのね、『防長2州が焦土と化しても天勅を奉じて攘夷を遂行する』とかカッコイイこと言ってるけど、もし負けてみんな討ち死にして藩主一人が残されても、結局藩主も連合国の捕虜になるか、幕府に処刑されるかになると思うんだけど、その覚悟は藩主にあるわけ?」

と、藩主に伝えるよう藩政府員に懇願。その結果、藩主から

「イギリス軍艦に行って停戦の交渉して来て」

と、命が出る。ほんとコロコロ考えの変わる藩だ。しかし、すっかりおかんむりのイギリスはこれを拒否。

そうこうしているうちに、連合国側がいちおう設けてくれていた猶予期限を過ぎ、連合艦隊は下関を砲撃。たちまち2000人の兵士が上陸してしまう。ちなみにこの時ちょうど幕府も長州征伐に来ていて、もう藩内はてんやわんや。

「もう構っていられないから、お前何とかしろ!」と、送り出されたのがあの男である。(2人のこれだけの苦労を知った上で、彼が連合国側との交渉の席で何をしたかを考えると、なんかもう……)

結局、なんとか停戦に持ち込み、長州藩滅亡は免れたものの、今度は攘夷推しだった朝廷から「え、攘夷するんじゃなかったの?」と長州藩にクレームが来る。そこで困った藩政府員が「あれはあいつらが藩主を丸めこんで勝手にやったこと」とか言って逃げちゃったもんだから、彼らはそれ以来ずーっと命を狙われることになるのだった。