【決別】狂った世界、矛盾した世界はもう信じないし見ない

「私はこのような狂った世界を信じませんし、もはや見たいとも思いません。だから、なるようになりなさい。好きにしなさい。私は神が私に見せたいものだけを見る」この文言を終日意識して過ごしました。(奇跡のコースのどこかにこんな文言が書いてあったようななかったような……(^_^;))なぜそう思うように至ったのかを私の言葉で解説します。

 

抵抗を放棄して光を見たのにまた苦しみ出した私の“気づき”の過程と神との対話「毒の花」の最後の方に似たような宣言が出てきました。それから5日後くらいのことです。

 

「狂っていながら正気である」ということがないように、私は狂っているか正気でいるかのどちらかである。矛盾した世界と真理の世界は同時に存在できないのだから、私はそのどちらかを選ばなければならない。それならば私は真理を選ぶ。私は真理の世界を見る。

まだ自然に選べないとしても、選びたい。なんとしても選びたい。

まだ自然に見ることができないとしても、見たい。なんとしても見たい。

 

これまでの信念の置き場所であった、慣れ親しんだこの狂ったビジョン、矛盾した世界の余韻にはもう惑わされない。いったい誰が自分がこれまで浸かっていた毒の風呂にまた戻りたいと思うだろうか。これまで天然温泉だと思っていたが、上がってみたらそれは毒の風呂だった。しばらくは毒の湯気を感じるかもしれないが私はそれを吸い込まない。

 

狂っているならそれを信じる価値などどこにあるのだろうか。私は世界を「嘘っぽい」と知覚して否定したが、彼らは嘘をついているのではない。単に狂っているのである。狂っているから首尾一貫していない。首尾一貫していないから狂っている。だから毎回結果が変わり、私はそれに振り回されてきた。誰かの悲しみが誰かの喜びになり、誰かの損失が誰かの得になる。どうして試験管の中のルールが意識にまで適用されているのだろうか。このような世界に信念を置けば、裏切りに遭うのは必然である。そんな世界では期待は必ず悲しみの実を結ぶ種にすぎない。

 

そして、狂っているだけなのだから(そういう性質のものなのだから)そこに罪もない。罪がなければ残された唯一の存在の手がかりもないことになる。(仮にそれが罪、世界で最も人の信念を与えられている「罪」というものだったとしても、罪は実在しないのだから結局それは非実在の属性を否定できない)すなわち彼らには実体がない。実体がないもので構成された全体も同じように実体がない。すなわちこんな狂った世界には実体がない。実体がないのに存在しているように見えるのは、ライフ(HP)があるからだ。そのライフは常に1で、それを与えているのは私の信念だった。ならばその信念を取り下げ、私は今世界を解放して真実の実相世界を見たい。

 

矛盾した世界を信じ、私まで一緒に矛盾することにいったいどんな価値があるというのだろうか。矛盾は分離だ。分離は苦しい。「I miss you」は切ない。とくに自分が自分でないことの苦しみはえげつない。だから私は分離によって生じる矛盾と、矛盾によって構成された矛盾した世界を信じない。そんなものに付き合うのは馬鹿馬鹿しいし、狂っている。

 

だから、私はこのような狂った世界を信じないし、もはや見たいとも思わない。だから、なるようになりなさい。好きにしなさい。私は神が私に見せたいものだけを見る。

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