【性自認の幻想】「女性になりたい」と錯覚していた私

私は長年性自認の問題で悩んでいました。

しかし、ひとつひとつ悩みを解体して迫っていった結果、コアになっていたのはまったく別の問題だったことに気づいて世界が一変しました。

その最終決戦となった自問自答の過程をお話しします。

 

「女性になりたい」

そう考えていた当時の私は、いわゆる性同一性障害に当てはまっていました。その時期にいろいろ悩んで調べたのだけれど、性同一性障害の中には様々な分類があって、その中の「性自認が女性寄りだけど女性が性の対象である」という分類です。

もう何も悩んでいないこと以外は私は当時と感性の面ではほとんど変わっていない(意図的に変えた覚えはない)ので、たぶん今でもそうなのでしょう。いや、むしろ束縛を離れた私の中のそれは、当時よりも「こじれて」しまっているかもしれない。

どっちでもいいです。

 

私を分類することでスッキリする誰かがいるなら、どうぞ好きなように分類して下さいな。

 

ほんと「病気」のメニューの豊富さといったら。

たぶんあなたも調べたら何かの病気に「分類」されるのではないでしょうか。

幸せに生きることと何も関係ない「病気」に。

 

ここでは、私が自分についてしていた誤解を晴らし、自分と再会したという話をします。トランスジェンダーの問題に普遍的な解決をもたらそうという話ではなく、あくまで「私の場合はこうでした!」という話で、見方を変えたら世界が一変したというだけのよくある話です。

※見出しをつけたらそれはそれで伝えたいことが見出しに引っ張られるので結論まで見出しはありません。読みにくかったらすみません。

「女性になりたい」という欲求の根底にあったものを探り当てた過程

「そういうのよくわからんけど、私は普通の女性として生きたいの!」

「どうせ男と女のいいとこ取りのハイブリッドだから幸いである、みたいなこと言うんでしょ?そういうのいいから私は普通の女性として生きたいの!」

「何も知らないくせに!」

このように私はやさしい人たちの言葉に条件反射で抵抗して、聞く耳を持たなかった。

 

後になって気づいて驚いたのだが、この「普通の」というやつが、性自認の問題に限らずありとあらゆる苦しみの本体とつながっている諸悪の根源である。もしかしたらあなたも薄々感じているのではないだろうか。

明確に定義できないものを柱にしている命題の前では、あらゆる追究は霧散してしまって本体には届かない。よって、あなたがその有害なのに無敵で厄介な命題を机のど真ん中に置いてにらめっこを続ける限り、それはいつまでもそこに在って、放射性物質のようにあなたの細胞を貫く苦しみを放ち続ける。

 

もし「普通の女性」を教えてくれる人がいたら聞いてみたい。「海の中心はどこですか?」と。

いけない、これは長くなるやつ。

オッケー、先へ進もう。

 

 

「うるさい!私は女性の体が欲しいの!」

これが当時の私が持っていた、神をも黙らせる最強の問題だった。これには「普通の」というのはないので、追究を本質から逸してしまう魔法がかからない。

 

なぜだろうか。なぜ女性の体になりたいのか?ひとつひとつ解体していくことにした。

 

女性の体を欲するということはすなわち女性の体が何らかのメリットを持っていると思うからである。

しなやかな美しさ、柔らかな印象、清らかで澄んだやさしい声、そしてそれらで表現される慈母のような優しさ。私は女性の体にこのようなメリットを感じていた。そしてそうなりたいと強く憧れ、当然の帰結として自分についている男性の象徴を忌まわしく思った。

 

しかし、しなやかな美しさは男性器のついた肉体では叶えられないものだろうか?

柔らかな印象は男性器のついた肉体では叶えられないものだろうか?

清らかで澄んだやさしい声は男性器のついた肉体では叶えられないものだろうか?

慈母のような優しさは男性器のついた肉体では表現できないものだろうか?

 

私は男性の肉体でありながら、それらすべてを体現している美しい人を古今東西に何人も知っていた。

 

私の場合、男性器を取ってしまえばそれらがすべて手に入ると考えていた節があるが、どうやらそれは現実逃避の気持ちが見せている誇大な幻想のようだった。なぜなら、それを考える時の私は、夏休みの宿題、水泳の授業、期末テスト、繁忙日の出勤……これまで何度も経験してきた逃避の衝動と同じ挙動を示していたからだ。

何かから逃げている時の風が心に吹いている。

認めるのはとても苦しかったけど、それは認めざるを得ないことのようだった。

 

ならば、その逃避の衝動を起こさせているものこそが、取り去るべき忌まわしきものではないだろうか?そんな気がしてきた。ただ、それが何なのかこの段階では本当にわからなかった。私はそこから生まれる苦しみを解体してみるという至極単純なことから逃げ、苦しみの責任をすべて男性器に押し付けスケープゴートにしていたようだった(ち○ちんがかわいそうである)。

 

また、外科手術で男性器を取っただけでそれが手に入る、もしくはそれをイージーに手に入れられるようになると考えるのは他でもない一生懸命生きている女性の体を持つ人たちへの冒涜だと気づいて愕然とした。私は無意識に自分がなりたいものを冒涜していたのだ。

憧れの姿が冒涜の対象なのだとしたら、それを叶えた後も苦しみは続くではないか。

例えばかっこいいテニスプレイヤーになりたい人がいたとして、もし彼が「テニサーなんてヤ○チンばっかしサイテー」と思っていたら、テニスの上達の可能性は大きく削がれるだろうし、その数多の真実のうちのほんの一面にすぎないのに意識を支配してしまっている考えが、いつまでも彼の打球を乱して彼を苦しめるだろう。彼がその考えに命を与え続ける限り。

 

なにより、今の器の私が、外科手術で姿形だけ女性になったところで、それこそとんでもないレッドオーシャンに裸で突っ込んでいくことになりはしないか、と思った。女性っぽい体で、生まれた時から女性の体を持っている女性たちの美(と私が考えるもの)の価値観の世界に同じ目線で突っ込んでいく。当然そうなれば女性と同じ評価を求めるだろう。

それには女性よりも女性らしい高い美意識が要求されるのではないか?

そもそも「女性よりも女性らしい」の定義は何か?

何を基準にして美意識の高い低いを決めればよいのか?

いったい私の安住の地はどこにあるのか?

……これはどこまでいっても、努力をすればするほど、現実にその美を手に入れれば入れるほど、元の同じ問題に戻って来はしないか?むしろよりエッセンシャルに際立って私に絶望と虚無感を与えはしないか?

私は自己矛盾に気づいた。

 

もちろん、命がけの手術で女性の体を手に入れて、見事に女性として美しく生きている人々がいることも知っていた。彼女たちが「勇気を出して手術を受けて本当に良かった」と言っていることも。

私はどうだろうか?彼女たちと同じことを言えるだろうか?

……どうも言えそうになかった。

それなのに、外科手術に対して心を灼き焦がすような強すぎる必要性を感じていた。おかしい。これには似たような体験があった。

 

往々にして「○○をしなければならない!」「○○がなければすべてがダメになる」みたいに絶対必要な条件と感じて心がガッチリ掴んで離さないものというのは、全然それ自体の本質が見えていないことが多い。

それにどっぷり支配された意識では、客観的な視点からの考察ができないのだ。そしてそれが考察を許さないくらいに崇め奉られて不可侵なら、それはもう本来の目的を失っている。そういうものは使い物にならないどころか、今後の自分をどこにいるのかわからない、帰り方もわからないような場所へ連れて行くことが多い。もしかしたら今既にそういう場所にいるかもしれない。

私は身に覚えがあった。

 

さらに、当時の私が知識としては知っていてもお花畑的にすっ飛ばしていた事実がある。それは、女性の体には女性の体故の苦労がある、ということだ。

毎月定期的に訪れる痛み、男性と比較すれば低めのスタミナ、まだまだ男性優位な社会。とくに三番目については、この時点まで男性の体で生きてきた下地がある私がそこにスライドした場合、コントラストで受けるショックはマシマシだろう。

「そういうのもひっくるめて女性になりたいの!」

と、考えていたが、この「ひっくるめて」はまさにそれらを現実として生きている女性諸氏への冒涜に他ならないし、虚言癖マンの「成功したら」くらいあてにならない。私がひっくるめていいのは自分の臨場感の届く範囲のことだけだ。なにもひっくるまってない。この「そういうのもひっくるめて」は「うるさいうるさいとにかく」と入れ替えたほうが、より本音に近いように感じた。

 

 

さて、どうやら男性器の有無は私のなりたいものとはあまり関係なさそうなことがわかった。女性の体でなければ得られないと決めつけていたものは、べつに男性の体のままでも手に入れられそうなもののようだし、女性の世界に飛び込んだところでやっていける(瞬間瞬間で満足を得続けられる)根拠もなさそうだし、外科手術を受ける「必要」は疑わしい。そして心にはなにかから逃げているときの風が吹いている。

 

さあ、わからなくなってきた。私はいったい何になりたいのだろうか?

どうやら「女性」になりたいわけではないようである。おそらく、なりたいと感じるものに最も近く強力な既成概念が「女性」だったのだろう。少なくとも私も両親もそれしか知らなかったのだから仕方ない。私の見てきた世界には男性と女性しかおらず、それ以外は差別対象とされていたのだから。

「かわいいものが好き」とか「話し方や仕草がやわらかくて男性っぽくない」とか「男性が好き」とか「男なのに髪を伸ばしていてしかもツヤツヤ」とか「男なのに美容にこだわる」(どれも悪いことではない。自分自身がそれを悪いと思わない限りは)とかで、誰かが決めた既存の「男性」という概念が自我とマッチしなければ、あとは差別対象になるか女性になるかという究極のジャッジメントを要求される。最高に馬鹿げている。

なぜ選択肢がそれしかないのか?

そもそも決めないといけないものなのか?

何のために?

そのレッテルは私たちを創ったものへの冒涜にはならないだろうか?それは悲しんではいないだろうか?

少なくとも自分自身は悲しませたし苦しめてきた。それで十分ではないだろうか。

 

とりあえず私の意識に「女性になりたい」という考えが宿るまでに内外から消去法が働いたことは容易に想像がつく。しかし「女性」という結果から逆に辿ってみた時に、行き着く先はまだまだ核心とは距離があることがわかった。足りないのは何か?素直さか?

 

いや、答えはずっとはっきりしていた。

そこにいて「私はここです!」って言っていた。それに既成概念のきぐるみを着せてモゴモゴさせたのは私だ。「そう在ってはならない」という価値観に同意してしまい、ずっと目を背けて逃げていたのは私だ。しかし、それらに実体がないことに気づいたら、ようやくわかった。

 

私は、しなやかで美しい、柔らかな印象を持った、清らかで澄んだやさしい声の、慈母のような優しいものになりたかったのだ。別に女性になりたかったわけでも男性でいたくなかったわけでもない。

それが自分だった。私はずっと自分になりたかっただけなのだ。

何を恥じることがあるだろうか。

 

それが「間違っている」「男らしくない」という誤解を認めてしまったことがすべての始まりだったし、周囲に受け入れてほしくて「ならば」と女性になりたいと考えていたようだが、自分でもよくわかっていないものを受け入れてくれと周囲に望むなど到底無理な話だし、そもそも周囲に受け入れてほしいのではなく、自分に受け入れてほしかったのだ。

その証拠に、自分に自分でいることを認めたら周囲に受け入れられるか否かなんてびっくりするほどどうでもよくなったし、自由に選択できるようになった。

 

あれ、これはもしかすると同じ誤解で苦しんでいる人もいるかもしれないぞ、と思った。

「男性もしくは女性」という危険な分類が殺すもの

少なくとも私がこれまで触れてきた「男性もしくは女性」という分類は危険だ。肉体的な意味だけにとどまらずあらゆる面で人を死に追いやってしまうものだ。

 

踏まれた花を見ただけで涙を流すような、物の痛みを臨場感を持って受け取れる心優しい少年の心を、それは「女々しい!」「男のくせに!」と殺してしまう。人の心の痛みを誰よりも臨場感を持って感じ取り、それらを的確に癒やしてきた人とその人が説いた教えを聖なるものと認めながら、これは矛盾している。イエスやブッダが再臨したらその言葉で殺してしまうのだろうか?

人前で臆することなく物を言い、強いリーダーシップを発揮する勇敢で活発な少女の心を「女なんだからお淑やかにしなさい!」「男みたい!」と殺してしまう。卑弥呼やジャンヌ・ダルクが復活したら同じように殺してしまうのだろうか?

逆に、踏まれた花を見ただけで涙を流すような、物の痛みを臨場感を持って受け取れる心優しい少女や、人前で臆することなく物を言い、強いリーダーシップを発揮する勇敢で活発な少年なら、周囲は沈黙するか、もしくは「いいね」とか「そういうものだ」みたいなぼやけた評価しかしない。なにそれ愛を感じないんですけど。

 

便宜上分類してみたが、この分類には何の意味もない。

なぜなら多くの場合、子どもたちはこの両方を兼ね備えているからだ。しかし、かなり早い段階で、肉体の性別に応じて“対極”とされる方の特性がそれぞれ的確な言葉で殺される。そして本人の感性がその対極とされる方により強く心地良さや親和性を感じていたら、その子の世界は地獄になる。

そもそも、人間性に極点はないのだけれど。

今まで思い出せなかった幼少期の記憶に答えがあった

このような考察の過程で、ふと思い出した記憶がある。今まで忘れていた幼少期の記憶。それが突然蘇ってきた。

 

私も他の男の子と同じように、ヒーローに憧れた。ただ、悪い奴をかっこいい必殺技でバンバンなぎ倒していく姿よりも、その、時に怪獣にまで向けられる慈愛の心や、人を愛する姿にとくに強く憧れた。

 

かっこよかった。

愛する者の姿はとてもかっこよかった。

 

父も母も大好きだったが、その感覚で捉えた時、ぶっきらぼうで職人気質で亭主関白な父親よりも、どちらかと言えば底抜けにやさしい母親のほうがかっこよく見えた。だから、母の真似をして、花や飼っていたうさぎの世話をたくさんやったし、思いっきり愛でた。花が枯れたときは感じるままに涙を流したし、うさぎが元気がないときは小屋に入っていつまでも撫でていた。

私はかっこいいはずだった。かっこいいヒーローと同じことをしているのだから、かっこいいのだ。

 

ところが、母の真似は父を不快にさせたようだった。ある時から母が「あれをもっと男らしくさせろ!」と怒られるようになった。男らしく?

私の世界に、突然「女」が表れた。

ひとつだった世界に区別が生まれた。

 

この、私の周囲にあった「男らしい」という概念はとかく私と相性が悪かった。言われるまま何度も、それこそ何千回も何万回もインストールしてみたが、やたらと不具合を起こすソフトウェアだった。しかしだからといって自然体でいたら「男らしくしろ!」と言われて否定される。「女の子みたーい」と言って笑われる。

たとえば、動物。飼っていた犬や、学校のうさぎなんかを愛でている姿がとかく「女っぽい」とセンセーショナルな批判の対象になってめんどくさかったので、本当はめっちゃ話したいし愛でたいけど、人前では表現の出力を極限まで絞って、興味のないフリをした。目一杯触れ合えるのは誰も見ていないときだけ。

 

自分というものを知ろうとするに、どうやら自分は「男らしくない」ものであるらしい。私はそのように自分を認識しだした。男らしくないものが自分であるならば、それはすなわち女性ではないか、という連想が働いた。私もまた騙されたのだ。

「男らしく」在ることも板につかず、自然体でいることも憚りながら20歳を迎えた頃、私は中性的な見た目のハードに、人とまったく会話のできない、自分を表現できないポンコツなソフトウェアを載せたとても表情の硬い、怯えたような目をした人間になっていた。※そこからの10年弱はなかなかの波乱だったが、とても長くなるし、もう「楽しかったわー」で終わっているので省略する。

おわりに「自分でいること」

後になって、私の脳は医学的には女性のそれにかなり近いらしいということを知った。女性の体の一部を生存のコアに近いところに持っていたようだ。思わず笑った。これは果たしてバグなのか?「ベンツにマツダのロータリーエンジン載せてみたwww」みたいな神の悪戯なのだろうか?

いや、今ならはっきり言える。これは小粋なサプライズだし、最高の贈り物だし、最高の贈り物無限製造機だ。この組み合わせでなければ体験できないことがたくさんあった。気づくまで、自分と再会するまで、その大半を私は苦しみと捉えていたけれど、空腹がごはんを究極的に美味しくするように、それらはこの自分との再会の感動を最高潮に盛り上げてくれた。よってこの件に関わった人の中に責められるべき人間など一人もいないし、失ったものなど何一つないことを私は今“知って”いる。だから全員に感謝している。

 

冒頭でも言ったとおり、私を分類したい人がいたら好きなように分類したらよろしい。

「男らしくない」「女っぽい」「男らしい」「変なやつ」

感じたまま、好きなように表現したらよろしい。私は「そういうもの」だから。

人はその時点までの経験(データベース)を下地にして抱く感情から言葉を発する。当時の私はそれらにすべて否定的な意味を与えていたけれど、その言葉の元になっている経験(データベース)にフォーカスすると、捉え方は如何様にもなることを知った。

とくに、とくに問題になる「気持ち悪い」という言葉。これは発信者の理解(処理能力)を凌駕している価値(神秘性にも似た)に触れた時に出る言葉だと知った。つまり、この上ない褒め言葉なのだ。「Unbelievable」に近い「気持ち悪い」がたくさんあるのだ。他で使われている場面をよく思い出してみるといい。この言葉で傷ついているあなた、あなたは圧倒的な価値であり、神秘なのだ。もう一度よく、鏡と世界を見てみるとよい。

あなたは自分にかけられた言葉にどんな意味を与えるだろう?

 

私は、女性っぽいという見方をされれば、それは敏感で繊細なところを褒められたようで嬉しいし、男性っぽいという見方をされれば強さや真っ直ぐな姿勢を褒められたようでそれはそれで嬉しい。変なやつという見方をされれば、それはその人のこれまでのデータベースにない存在だったり、瞬間瞬間の予測を超えている存在だという率直な驚きを表明されたようでこれもまた嬉しい。「犬みたい」「猫みたい」「花みたい」何でも“良い”し、どれでも“良い”。臆することなく感じたままを表現してくれたことに感謝する。

なりたいものや在り方は複数あっていい。ある人には支離滅裂に見えていても自分が自分と調和しているならそれでいい。上記の評価はどれも「美しく在ること」と一切矛盾しない。

 

「自分」とはありのままで「自分」であって、そこにどんな定義も条件も、誰の承認も必要ない。ただ、自分は自分に認めてもらえないと、居場所を求めて無限の定義の海に飛び出して溺れることになる。

私も徹底的に自問自答をしなければ気づけなかったように、「自分でいたい」という欲求は今あれこれ思考している表層意識ではなくて潜在意識にあるので、自分との不調和は考えていることと調和しない現状をたくさん連れて来る。

 

それまで「これが自分のなりたいものでそれ以外はない!」と信じていたものが、自分と調和した結果「やっぱりそうだよね!」ってなれば、ずっといたその欲求に運命を感じて感動するだろうし、「近いけどないけどなんか違った」ってなって、形が変わったり、また全く別のものに変わってしまったとしても、今度は新たにもたらされたそれに感動するだろう。結局なりたいと強く感じるものに向かっていることに変わりはない。

しかしそこにはなりたいものそれ自体や、「なりたいものになれなかったら」という仮定がもたらす恐怖が生むあの焼けるような苦しみはない。快適な“在り方”を選び続ける快適な旅路だ。

 

(同じようなことで悩んでいる人へ)だから、悩まないで。悩ましいことや苦しいことは山ほどあるかもしれないけれど、それはすべて「自分に認めてほしい」という自分の叫びに気づいてほしくて自分自身に見せられているものだ。経験上、自分との距離が離れれば離れるほど、自分への態度が冷たければ冷たいほど、その現状はショッキングで露骨なものになっていく。

私の場合は、自分が自分であることを認め、自分を宣言した瞬間から、そういうのが一切消えた。魔法のように世界が姿形を変えたりはしなかったが、それらは姿形を保ったまままったく別物に変化した。今まで自分にとって重要だと思っていた命題も、忘れてしまうくらいにどうでもいいことだったと気付かされた。

 

自分でいることは底抜けに自由で快適極まりないものだ。自分との鬼ごっこの鬼になれる。

だから、もしも当時の私のように袋小路に迷い込んでいる人がいるなら、どうか自分と再会してほしいと強く願う。そのためには、なりたいと思っている自分と対話するのが近道だし、私の自問自答がその一助になればすごく嬉しい。

 

 

以上です。最後までお読み下さいましてありがとうございました。

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