死と光の体験について

以前、ちょっと臨死体験をしたことがあります。その時に見てきた世界と、その経験がどのような形で今の私に影響を与えたかなど、だらだらとお話しさせていただきます。※リズムが崩れるので常体で書きました。

臨死体験で見てきた光の世界「死を恐れなくていい」

死を恐れなくていい。体験してきたけど何も怖くなかった。(心肺4回くらい停まったらしいです)何なら死んでないし。

 

それは強い光だった。私はその光から、光として、信じられないくらい無垢な自分を見ていた。そこには光と私(のようなもの)しかいなかった。

私に視点を移し、今度は光を見た。肉体の目ならば眩しくて到底目を開けていられないような、音まで聞こえてきそうなくらいに強く神々しい光だった。

「進もう」と思って進むと、「進む」という概念が消える、そんな世界だったので、その“私のようなもの”と光の境目もすごく曖昧で、どっちがどっちなのかわからなかった。

 

「ここから先に踏み出せば戻れない」と感じたボーダーのようなところも超えたが、そんなものはなかった。あるのは光だけだった。

そこにそれを見たのは、幼い頃に教わった「三途の川」の話があったからだろう。あの世とこの世を隔てる三途の川には橋がかかっていて、それを渡ると戻れない、みたいな。

 

リアルタイムでは理解できなかったが、そこにはすべてがあった。これまで在ったもの、今在るもの、これから在るもののすべてが。

誰もが、あの光を見る。すべてを満たしてくれ、赦してくれ、祝福してくれる、懐かしいあの光に包まれる。

安心していい。私たちは今でもその光の中にいる。

地獄は存在しない

当然のことながら、地獄もない。私には地獄への信念はなかったけれど、自分は絶対に天国には行けないタイプの人間だとは思っていた。でもあれはどう考えても天国だった。

もし地獄を描くとしたら、あの光の中に描かなければならない。それは相当な信念が要る。たぶんそれは太陽の光を目の前に照射されながらそれでも眠り続けるくらいに難しいことになるだろう。

 

地獄がないので、裁判(審判)にかけられることもない。

あったのは小さな自問自答だけだった。私は光の前ですらその光に疑念をもってしまったけれど、それすら尊重された。それはただあたたかくやさしく見届けて、私を絶対的に信頼してくれているのを感じた。まるで遊びから帰ってきた子どもが「やっぱりもう少し遊びたい!」と言ってもう一度家を出るのを微笑みながら見送る親のような、そんな愛で私は見送られた。

光の体験をした私のその後

光の体験によって、夢(妄想幻想)と現実の概念がひっくり返る。

私は蘇生したあとしばらくはどっちが現実でどっちが夢なのかわからなくなった。光の世界の臨場感や手応えに比べると、むしろ五感で体感されるこの世界のほうがずっと曖昧で、すごく夢っぽい。

しかしそれは、私たちに与えられた力によって、再度覆ることも可能だ。事実私は、臨死体験で見てきた世界のことを理解するまでの13年間、再び、常に死にたくなるような世界を生きた。

臨死体験をするまでに生きていた世界と同じ、不安と恐怖と劣等感で圧し潰されそうになりながら生きる、私を殺そうとする敵だらけの世界だった。以前、「消えてしまいたい」「1日も早くこんな世界(自分ごと)終わって欲しい」と毎日のように願って生きていたら本当に“死の体験”がやってきたわけだが、結果それが何の解決にもならなかったことが証明されている。

体験的に死が実在しないことを知っているにもかかわらず、死にたいと考えているこの矛盾にまったく気づかなかった。

 

私の中であの光の体験が「夢」として再処理されるのに、それほど時間はかからなかった。私は再び幻想に信念を置いた。

いつしかそれは酒の席での話題程度にまで成り下がった。

 

またそれは少なくとも私が知覚できるような形では、私の現実にほとんど効力(現世利益)をもたらさなかった。

このようなインパクトのある体験をした人というのは、命のありがたみに気づいてそこからの生を一生懸命生きることや、またその体験そのものをコンテンツとして発信することで、成功を収めるものだと考えていた。私も当初はそう期待した。

しかし、私にそれは起こらなかった。それどころか私は戻ったその日か翌日には、臨死体験前よりも強くはっきりと絶望していた。

一生懸命蘇生をしてくれた関係者の方々に非常に申し訳ないのだが、当時の私にはそれがわからなかった。

光の夢で驕った私と知覚された世界の変化

そして、理解は13年後のある時、たったの数日で成された。満ちた、と言ったほうが適切かもしれない。

これは、正解ではない選択を9999回続けた結果、10000回目でやっと残りの1が正解であると知覚されるのと似ているのかもしれない。

私が価値があると思って追い求めてきたすべてが価値を失い、色褪せた。

その結果、私は自由になった。

 

雷に撃たれたわけでもないし、どこかの宗教に入信したわけでもないし、瞑想をしたわけでもない。

 

ただ、境界線を指し示すことはできないけれど、今日のこの状態に至る前に、知覚の上で汽水域のようなものはあった。感覚の上で、あの光の世界の記憶が今見ている世界に被るような、そんな断片はあった。

それは、私の知覚の上では、悪夢に光の夢が混ざるようなもので、結局夢の移行にすぎず、夢であるがゆえに不安定なものだった。光の声が聞こえるようになったのはその頃である。これは半年~1年程度続いたと思う。

当時、まだ「早く楽になりたい」と焦っていた私はそれを、自分が(他と比較して)選ばれし者になったと知覚してしまった。(無意識に光を救済と知覚していたようだが、そこだけは正しかったと思う)

その結果、世界は急に展開が速くなった。極端に好意的なものと、真逆のように絶望させる極端に攻撃的なものが目まぐるしく次から次へと象徴的に現れるようになった。

最後に見た不快な静寂

刺激的な展開の嵐が去ったあと、最後にやってきたのは不快な静寂だった。どこを見ても焦り、驕り、恐怖、罪悪感が見えた。私はそれらと戦おうとしたし、それらから自分を防御しようとした。しかしすればするほどそれらは強く、存在感を増していった。

語りかけてくる光の声もすべて無視しているうちに、まったく聞こえなくなった。

疲れ切った私はこれまでで最も具体的に人生を終わらせることを考えた。

しかしあの光の体験が邪魔をした。それは叶わない。願い続け、リアルに想像して苦しみを味わうことしかできない。それならば、私は今“何”をしようとしているのか?

 

虚しかった。そして、死にたくなるような虚しさの最後に見たのは、これまでで最もはっきりと現れた光からのメッセージだった。

「死は存在しない」

次の瞬間は、これまでで一番長く感じる濃厚な一瞬だった。複合的に、同時並列的に、知覚に変化が起こった。

光の声も、これまで無視していたのも含めて、また聞こえるようになった。

やっと光の体験に知覚が追いついたような

これはまさに、自分が肉体(分離の象徴)であるという誤った信念が生み出した世界だった。

 

やっと、あの光の体験に知覚が追いついた?ような感覚。

たしかに世界は分離という夢から生じている。そしてそこには、(再び分離を選択した)私の視点からいえば「急ごしらえで“再創造”された」世界には、いくつも私の“癖”(パターン)があらわれていた。私が今になって「急ごしらえだったな」と判断するのは、それはあまりにも矛盾していて荒々しいことがわかったからである。

私は世界がいう神という概念についてはあまり勉強したことがないけれど、全知全能らしいことくらいは知っている。こんな世界、全知全能が創るにはあまりにもお粗末すぎる。

また、仮にあの光が神ならば、あそこからは到底生じ得ない世界だということだけは体験的に断言できる。

そうなれば、私の見ているこの世界を作り出せるのはただ一人しかいない。

 

だから私は、そこから信念を取り下げた。頑張ってそのようにしたというよりは、抜け落ちたといったほうが適切かもしれない。

走っても走ってもたどり着かないから走るのをやめるのに似ている。

「諦めた」のではない。諦めたのではなく、圧倒的、絶対的に間違っていたことに気づいたのだ。そして、私は自分が間違っていた事実を喜んだ。

光の体験をするのに死は必要ない

光を体験するのに死という体験も臨死体験も必要ではない。死それ自体はまるで関係ない。

あの世界に行ってみてわかったことは、そこは行くところではなくて居る場所だったということ。家の中にいて今自分が家にいることを知るのに窓から飛び降りる必要はない。

死それ自体はまるで関係ない。それは私たちが信じている信念体系の最終到達点とされているが、そこに到ったときに知るのはそれが実在しないというまさかの結論。“死”という体験をしたと思った次の瞬間、誰しもが死が存在しないことを知る。というか死んだはずなのにまったく消滅もしておらず苦痛もなく、生き生きと在り続けていることを知る。つまりそれは幻であったことをありありと体験する。

実在しないものを最終到達点とする信念体系は無価値であり、そもそも実在しないのだから最終到達点などというものもなく、到達は不可能。あるのは堂々巡りだけ。疲れるだけだ。現にこの世界は疲弊しきっている。

死を恐れると必然的に生きることは怖くなる。逃れ得ないそれへ到る道のりである毎日が、一瞬一瞬が、恐怖との戦いになる。それは、疲れる。

問題は死ではなく、恐怖(罪悪感)である。それは私たちの選択次第で今私たちと共に在ることができるからである。それに力を与えてはいけない。

つまり死は無である

“如何なるかたち”であろうと死を求めることは、他でもないあなたが自分ですぐに拾い集めることになる面倒事をばらまくだけだからやめておいたほうがいい。

それは実在しないが、あなた自身が自分で蒔いたという手応えがあるため、それはリアリティをもって知覚される。それはまったく楽しいものではないからやめておいたほうがいい。何より全く必要ではない、無用の体験である。結局、違う形で同じ問題を経験するだけになるだろう。生命は途切れることはないのだから。

 

ゴータマ・シッダールタ先輩が6年の苦行の末、「苦行いらなかったわ」と爽やかに言ってのけたみたいに、それは“要らない”。

また、イエス先輩がそれが実在しないことを派手に証明してみせたのだから、私たちが改めてそれを試す必要はない。

 

そして、死は何の解決にもならない。「何の使い道もない」と言ってもいい。強いて言えば何の使い道もないことがわかることが唯一の使い道。あれはそうとしか言えない。

私たちが今まさに感じている様々な問題(愛ではない感覚)とは、まるで関係ないレベル(領域)の概念なので、当然そうなる。

例えば隣の家の火事を消したくて、今自分の家の寝室で布団に入るようなものだ。この喩えが的確かはわからないけれど、そのくらいズレている。

何が私にこの世界を見せているのか

光の夢への移行が起こる前後で、私は、導かれるようにして「奇跡のコース」という本を読むようになった。この頃、読む本読む本に「奇跡のコース」という名前が出てきて読まずにはいられなくなったのだった。※ちなみに、最初のきっかけになった本は、世界の闇を暴こうとする都市伝説的な本を買いに行ったときに視界に入って好奇心で買った本だった。

聖書も読んだことがない(今現在もない)私には、専門用語が難しく、初回は10ページも読まずに投げ出した。それで別の本を買って読み始めたものの、またそこにも「奇跡のコース」の名前が出てくるので、再度手にとって強引に読み進めることにした。

完全には理解できないものの、あの光の世界のことを思い出しながら読むと腑に落ちる部分がいくつもあって、今日に至るまで何十回も読み続けている。最初買ったのはナチュラルスピリット社の「奇跡のコース」だったが、翻訳者の違う中央アート出版社の「奇跡講座」も買って、これも何度も読み続けている。

 

その結果、奇跡のコースのメインテーマである

「実在するものは脅かされない 実在しないものは存在しない」

という言葉から、「今見ている世界は何なのか?」という問いが生まれた。

 

私が見てきた光の世界は感覚上明らかな実在だったので、それ以外が存在しないとするならば、この見えている世界は何なのか?

実在しているものが見えないということがあるだろうか?

それは見ようとすれば簡単に見えるものではないのだろうか?

……と、進んでいった。時間の尺度でいうなら、最後の問いに至るまで1年半近くかかった。

 

<パワハラ上司の無罪性に触れた話「時間が幻想ならば彼は無垢なままである」>

<時間の幻想性に気づいたらすべてが可愛く見えるようになった「例のウィルスについて」>

の記事で書いたような、最低最悪の地獄のような場所、長年逃げ出したいと思っていた同じ場所に祝福(無罪性)を見る、という経験を通して、それは見ようとすれば見える質のものであることが手応えをもって理解できた。

結果、私は、私にこの世界を見せているのは私による価値判断を伴う抵抗だと理解した。つまりそれは信念の置き場所を間違えた結果としての世界、自分だと思っている自分ではないもの(本来の自分とは似ても似つかない偽りの自分すべて)に信念を置くと見える世界だと。

おわりに

以上です。

思った以上に長くなりましたが、最後までお読みくださりありがとうございます。ここまで敬体ではなく常体でしたので読みづらかったかもしれません、すみません。

何かのお役に立てれば幸いです。

関連記事

コメント

  • コメント (0)

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。

広告




PAGE TOP