抵抗を放棄して光を見たのにまた苦しみ出した私の“気づき”の過程と神との対話「毒の花」

「一切の抵抗を放棄し、愛になって全てと向かい合う」という姿勢で束の間光の世界(まさに天国!)を見せてもらったにもかかわらず、また悶々としだした私。。。しかし昨日の「世界からの安全」はそのまま、今度ははっきりと内から“それ”は湧いてきました。

 

午前中はよかったが、午後くらいからまた悶々としだした私。

「一切の抵抗を放棄し、愛になって全てと向かい合う」という姿勢がもたらす、その絶大にして露骨すぎる“効果”にはもはや疑念はなく、私は視界に現れる、これまでであれば苦痛をもたらす不快な結果につながることが多かった人や事象によって平安を乱されることはなくなった。その姿勢でいると、それらは現れなかった。私が囚われている隙に一瞬現れたように見えても、その姿勢で向かい合った途端、何も私に害を成さずに消えていった。時に物理法則を無視する形で消えることすらあった。長年あれほど苦痛に感じていた時間すら、今日は私に道を譲ってくれた。このように、今日の世界は安全だった。

ところが、闇が起こったのは私の中だった。視界とは関係のないことについての、ある不安の種が私の心に落ち、瞬く間に根を張った。

いつしか「さあ、愛しましょう。気が済むまでかかってきなさい」に変わった(そのほうがしっくりきたので)、あの姿勢の導入の言葉に身を任せ、愛になろうとしたが、うまくいかない。昨日ほど“軽く”なれない。それでも続けた。幾度となく不安の果実が落ちて弾ける度に、少しでも手応えがあるまで何度だってその姿勢を試みた。

だって私にはもう抵抗する気がない。抵抗なんてしたくない。抵抗を放棄することで見える世界を知ってしまったから。それなのに、気になってしまう。ありのまま、流れ行くままにただ見つめるという気になれない。気がつけば悶々と考えてしまっている。世界に干渉なんてしたくないのに、不安な予測と、それを打ち消すような、期待を込めた好意的な予測や、そのどちらでもない美しい(なにが?)予測、……予測、予測、予測。いろんな色のレッテルを張った無数の予測で心がどんどん散らかっていく。

そこへ、突然次のような言葉が浮かんだ。

「神の平安はここにあります。さあ、好きなだけ受け取りなさい」

それと同時に、これまでに感じたことのない、音が聞こえるような強い光を内に感じた。(「“ここ”が神の祭壇?」と思った)

この言葉は先の導入と同じことを言っているのだが、より強い宣言のように感じた。なんというか“距離”がない。はやく平安を取り戻したい私は、「愛しましょう。気が済むまでかかってきなさい。神の平安はここにあります。さあ、好きなだけ受け取りなさい」というふうにつなげて、これを新しい導入にしてひたすら愛(神の平安)に身を委ねようと試みた。

結果、午後からずっと見失っていた平安を、帰り道にはぼんやりと取り戻すことに成功した。

思い出した。これが6年前の私を壊滅的に絶望させ、狂わせ、何かに取り憑かれたように稚内や函館に行かせた動機だった。(いずれの「旅行」も突発的で、無計画で、全体としても部分としても一貫して支離滅裂でまさに狂っていた。それは簡単に言えば「傷心旅行」で、人生からの逃避行だった。※「ごんごじが出るブログ」時代から読んで下さっている方へ。以前「稚内と函館に行って来ましたー\(^o^)/」みたいなふざけた感じの薄っぺらい記事がありましたが、あれ実は死にに行っていました。素直じゃなくてすみませんでした。)これは、発生原因の外観こそ違えど、その質も挙動もまったく同じものだ。「お前、まだいたのか……」という感じ。

さらに、これは私の人生で最初に起こった、こちらから死を想うようになった闇、すなわち今見ている世界の根本原因とも紐付いている。これだったのか。ここにいたのか。

 

いつしか眠っていた私は、その日の23:43に目が覚めた。なぜか、眠る前より明らかにすっきりとしていた。「聖霊が持っていってくれたのかな?」とか思った矢先、オープン直後の私の心の場所取りをしようと、例の不安がいの一番に入ってきた。しかし私はそれを退けた。寝起きだったからかわからないが、なぜか簡単にできた。何よりそれが不快なことだけはよく知っていた。すぐに第二陣が来たがそれも退けた。第三陣は来る前に消し去った。

それでも、昼間にあれだけやられた相手なので、次なる襲撃に怯えた。今日のことで、自分の中にまだあることがわかった神への不信。あれだけのものを見せてもらっていながらまだ信じられていないとか、もうわけがわからない。前日とのギャップもあって、それがもたらすかもしれない結果は恐ろしく感じた。

そこへ、聞き覚えのある優しい声がした。湧きたての清らかな山水のような、軽やかな声。それは声だった。

「どうしてあなたは、毒の花に水を与え続けるのでしょうか。あなたを疲れさせ、苦しめ、老化させ、やがて死に至らしめる毒を放つ花を必死に守り、涙を流しながら、苦悶の表情で世話を続けているのでしょうか」

ああ、そのとおりだ。たしかに私は自分を苦しめるものに存在権を与えている、と思った。

「その花はあなたが水を与えるのをやめればたちどころに枯れて消え去ってしまう脆いものです。さあ、水を与えるのをおやめなさい」

この言葉で、「私は事実と関係なく“勝手に”苦しんでいる」というのが初めて見えた。無限にある可能性の中から悲観的なものを選び出し、そこに信念を与えることで“こちらから”それに“連結”し、自分の意思で毒を飲んで、“期待どおり”苦しんでいる。なんと愚かで、そしてなんと狂っていることだろう。少しも楽しくない!気持ちよくない!美しくない!私はこんなことをずっと繰り返していたのだ。

こんな嘘っぽい狂ったものに、“真なり”などという冠はあまりにも上等すぎる。一体誰が王冠を頭に載せただけの、虚言癖の狂った人の言うことなど聞くだろうか。しかし、私は彼を王と崇め奉り絶対服従を誓うようなことをしていた。しかもその王冠は私が“勝手に”与えたものだ。馬鹿げている。全体としても部分としても馬鹿げている。これはまるごと否定されるのが必然の馬鹿げた景色である。(まるでそれを待っているかのような徹底して馬鹿げた構成だ!)

「ふざけてる。こんなもんいらないわ」そんな、「あなたにピッタリ!絶対お得な耳寄り情報ですよ!」と言われて受け取ったけど、よく見たら全然自分と関係ないばかりか、書かれていることもものすごく胡散臭かったビラをポイ捨てするように、私は悶々とした感情と、その原因の実在性、そしてそれらが起こっていた場そのものをまるっと投げ捨てることができた。いらない。こんなもの心の底からいらない。なんで今までこんなものを大切に持っていたのだろう。

「好きにしなさい。なるようになりなさい。全部神にまかせてあるから、私は神が私に見せたいものだけを見る」

このような思考過程を経て、2:30頃、私は半日ぶりに無色透明な心を取り戻すことができた。実感としては、(日付が変わって)昨日の自分をまるで別人のように感じる。

 

……ということがありました。あの「神の平安はここにあります。さあ、好きなだけ受け取りなさい」という言葉(イメージ?)にすごく助けられました。本当にありがとうございます。

 

なに、眠っている愛する我が子が、さっきまで幸せそうに微笑んでいたのに急に苦しそうな表情をしたから、語りかけて安心させてやろうと思ったのさ。

前にも言ったがあなたは凄まじいスピードでいくつものレベルを突き進んでいる。だから、(あなたが思ったように)最初にあなたに光をもたらしたあの言葉(「さあ、愛しましょう。気が済むまでかかってきなさい」)は、もうあなたを支えきれなくなっていた。これまでから考えればまさに別人のようなレベルで抵抗を放棄しているあなたは、夢の中にいながら傍で語りかける親の言葉をはっきりと聞いた。あなたが今いるレベルはそういうところだ。あなたの眠りはとても浅くなってきている。

 

ありがとうございます。あと信じきれていなくてごめんなさい。今日の寝起きに語りかけてくれた言葉も素晴らしかったです。私のわだかまりを解除する強力なきかっけになってくれました。神さまあれは……?

 

あなたが気になって仕方ない人だよ。

 

うわやっぱり!!そんな気がしたんです。うわあ、嬉しいなあ。最高です。

 

彼もいつでもあなたを見ているよ。

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