般若波羅蜜多(Prajñā-pāramitā)を得るとこうなる

般若波羅蜜多(Prajñā-pāramitā:プラジュニャーパーラミター)について解説する。

 

「深遠なる仏の智慧」などと言われているけれど、わたしが感じたところによると、それは“深”くも“遠”くもない。誰しもがもともと持っていて、それを思い出す感動を味わうために一度手放したものだ。(智慧を思い出した後、あなたはそれを理解する)

そしてこの智慧はとてつもなく便利だ。

 

わたしが感じたところによると、般若波羅蜜多とは

  • あらゆるものに美しさを見る智慧
  • あらゆるものに祝福を見る智慧
  • 故にあらゆるものの正体を見抜く智慧

である。

 

あらゆるものに美しさを見たい、祝福を見たい、というのは人間の自然な欲求であるが故に、この智慧を受け入れるのに努力は不要である。この智慧は驚くほど自然に心に馴染む。ありあまる細胞レベルの記憶(身に覚えがある)とともに。

そもそもが、あなたも含めすべての子どもはこの智慧を持って生まれきて、この智慧で世界を楽しんでいる。周囲から顛倒夢想を植え付けられるまでは。

 

智慧に実証が成される前に、次々と注ぎ込まれる顛倒夢想(歪んだ世界観・現実っぽいよくできた幻の話・あなたが今見ている現実の種)に根拠が与えられるため、かなり早い段階で顛倒夢想に信念が宿り、智慧は意識から排除され影響力を失う。

こうして幻想の世界への旅がはじまる。

 

個人差はあるが、目一杯体験してきた幻想の世界に、息苦しさと疑問を感じはじめたとき、人は再び智慧を探し求め、片鱗を思い出す。本来持っていたものであるが故に、それはすんなりと馴染むはずなのだが、それまでの幻想への信念がそれに抵抗する。

しかし、朝起きて「今見ていた夢が現実で、この世界のほうが夢なんだよ」と言われても簡単には信じられないのと同じ理屈で、幻想と現実がぶつかった場合、圧倒的に現実が勝る。よって、智慧は遅かれ早かれ幻想への信念の影響力を凌駕する。

 

さて、般若波羅蜜多をもう一度取り戻したからといって、顛倒夢想へのリンクや、顛倒夢想そのものがすっかり消えてしまうわけではない。悟りを求めるひとにとってこれはとても大切なこと。

きれいさっぱり消えてしまう、という期待はより強力に人を顛倒夢想へと引き戻してしまうものだから、捨ててしまったほうがよい。

 

智慧によって顛倒夢想は消えてしまうのではない。その存在をありのままに認められるようになり、ありのままに許せるようになるのである。あらゆるものに美しさや祝福を見ることができるが故に。これは、その影響力の範囲外にいられるということであり、仮にまた影響を受けたとしても、すぐに(慣れないうちは数日~数週間かかるかもしれないが)智慧を取り戻せる状態である。

この自由な状態をどうやら「阿耨多羅三藐三菩提(anuttarāṃ-samyak-sambodhiṃ:アヌッタラサムヤックサンボディー)」というらしい。

 

智慧が機能を取り戻した直後は、「世界はこんなに楽しかったか?」という驚きから、「自分は死んで今までとまったく外観を保ったままの別の世界に転生したのか?」という錯覚を味わう。それでもまだ咄嗟には対応できない顛倒夢想に囚われることもあり、「あれ、楽しさの火が消えた?」という動揺も味わう。

しかし、最も快適なる見方の記憶を取り戻した感覚は、顛倒夢想を破って自然とそこへと戻っていく。

 

ここで驚くべきは、そこへ戻るための足がかりとなる現実が次から次へと表れることである。これが創造である。創造はこれまでも絶え間なくあなたによって行われていたが、このとき、あなたは智慧によってその源泉の間近にいるため、嫌でも感覚でそのプロセスを“観て”しまう。

あなたは自然と言葉に気をつけるようになる。なぜならそれは現実の創造と無関係ではないことを感じるから。

あなたは自然と行動に気をつけるようになる。なぜならそれは現実の創造と無関係ではないことを感じるから。

あなたは自然と思考に気をつけるようになる。なぜならそれは現実の創造と無関係ではないことを感じるから。

 

すべてのものに美しさや祝福が見える体験を繰り返すと、すべてのものが美しさや祝福の中に溶け合い、ものごとの境界が曖昧になってくるのを感じる。こうして、すべてが別々に分裂している、という幻想が薄れてくる。あなたが唯一無二(天上天下唯我独尊)であるが故に、そのような反応が起こる。

こうなってくると、例えばこれまで自分にとって苦痛をもたらしてきたようなことに出会っても、苦しみを苦しみと認識しながら、苦しみ苦しみとして体験しつつも、苦しまないようになる。そこに美しさや祝福を見て(感じて)しまうが故に。

あらゆる顛倒夢想は、この智慧との感動的な再会を味わうためにあったのだ、と感じる。「なんという甘美なる旅路だったことか」と、これまでの体験を祝福する。この祝福は人の体験にまで及ぶ。

 

この状態(阿耨多羅三藐三菩提)になると、しばらくはものごとに隠れる美しさや祝福を“暴く”のが楽しくなってくるが、やがて慣れてくると、美しさや祝福が当たり前に感じ取れるようになり、気をつけていないといつでも微笑しているようになる。

ものごとへのこだわり(執着)が薄れ、影響力を失い、「どちらでも“善い”し、どちらでなくとも“善い”」という状態になる。

この自動的に美しさや祝福を感じるようになった状態を「三昧」というらしい。

 

三昧の前後で、あらゆるものへ自然と愛を抱くようになる。すべてが無関係であるとは到底思えなくなるが故に。これは感動的な在り方である。

また、これまでも自分の目を覚まさせようとしてくれていたメッセンジャーがたくさんいたこと、そして今も世界には祝福のメッセンジャーが無数にいることに気づいて驚愕する。無限の関係性の中での自身の在り方を楽しむが故に。これは感動的な発見である。発見ではあるが、身に覚えがあり実にしっくりとくるため、これもまた“思い出した”のだと悟る。

 

この状態になると、あなたはもはや魂(愛)の輝きを隠せなくなる。性別や容姿に関係なく、すべての美を混ぜ合わせたような、得も言われぬ美しさを全方位に放つようになる。そう、無邪気な子どものように。あなたはもう、全宇宙に愛と感謝を振りまかずにはいられなくなる。

 

また、あらゆるものに美しさや祝福を直ちに感じるようになると、あらゆる恐怖や怒りや嫉妬は消える。

あらゆるものに美しさや祝福を感じる智慧によって、無限の関係性(縁起)を自由に行き来できるあなたは、彼の正体の記憶を究極の現実の中から呼び起こしてしまう。彼もまだ気づいていない彼の本音が聞こえ、それと対話ができるようになる。あなたは微笑まずにいられなくなる。故に般若波羅蜜多は、あらゆるものの正体を見抜く智慧である。

 

般若波羅蜜多で“感じる”世界が現実であるという実証が無限連鎖的にされていき、同時に顛倒夢想は幻想の属性を取り戻す。

いよいよ臨場感のスライド(ぶれ)が鎮まってくると、あなたの中に「涅槃」と呼ばれるものが顔を出す。涅槃の空気は独特なのですぐにわかる。涅槃を味わってからも、時折顛倒夢想の世界に戻りながら、楽しみながら、ぶれながら、どんどん涅槃へと深く入っていく。(ここで初めて「深い」という概念が出てくる)。

常に心が美しさや祝福を感じているから、たまに動揺が起こると、それがとても楽しく、なにより“愛おしく”感じるようになる。この反応によって、動揺(ネガティブ)は生まれた瞬間に祝福へと昇華する為、かつてのようにあなたに影響力をもつことはできない。結果として智慧を証明することになる。

あなたは天国や極楽浄土の性質と、その住所をはっきりと知るだろう。

 

冒頭から「智慧」「智慧」と言っているが、この智慧の機能は人にとって非常に根源的な快感をもたらす為、感覚にまで紐づいて全身に響き渡る。その働き方は「概念が即快感につながる」という点で、恋に似ている。この感動は一度思い出したらもう忘れない。

さらに、それを思い出したときというのは、それを忘れていた不自由な世界を知っているから、忘れようがない。そういった点で、般若波羅蜜多という智慧は他の智慧と一線を画す。

 

般若波羅蜜多は、智慧は壊れない。これは、物理的実体を持たないから壊れない、というような味気ない話ではない。その人自身の心理作用(メカニズム)によって、それは不壊なのである。

眠っていようと起きていようと、どこへ行こうと、どこへぶれようと、結局その中心点である智慧の存在を証明することになるからである。

 

あらゆるものに美しさや祝福を見る智慧は、距離も時間をも超えて縦横無尽に広がっていく。過去現在未来が祝福で満ち溢れる。このプロセスによって、最も強力な顛倒夢想である条件(必要性)の幻想と時間の束縛から覚める。なぜなら、それがなければ得られないと決めつけていた幸福感を、それなしに今、いきなり得るという現実が起こるからである。

価値観がひっくり返る。世界がひっくり返る。

あなたは、それまで持っていた夢や目標を再吟味するようになる。それを追い続けることも選べるし、きれいに捨ててしまって他を目指すことも選べる。「どちらでも“善い”し、どちらでなくとも“善い”」と感じるが故に。

この強力な顛倒夢想の克服は連鎖的に他の幻想や束縛の克服につながっていく。

今まで囚われてきたものごとが夢や幻と“大差ない”ということを感覚で理解する。あなたはほんとうの、確かな現実を生きるようになる。課題や条件など存在しない。心地良い永遠の今が“在る”だけだ、と悟るが故に。

幻想を生きていたときは信じられなかったが、現実の世界ではたしかに「頼む前に、応え」られていると知る。

 

よく勘違いされるのだが、般若波羅蜜多を得る、悟る、目覚めるということは、心が不感症になることではない。逆である。より敏感になるのだ。それまでは眠っていたのではないか、と思うくらいに世界がより感動的に、「最高」になる。それも、無条件に。

自分は今、やっとこの世界に生まれたのかもしれない、とさえ思う。

 

もしそうでないのなら、まだ幻想への信念が残っているはず。まだ幻想を見ているはず。

焦らなくていい。この世界には無限に贈り物があり、開ける楽しみも無限にあるのだから。

 

また、悟りはあなた以外の人々を実によく救うが、別にその“必要”はない。少なくとも悟りはあなた自身を完璧に救う。それで充分なのだ。悟りを開くと、世界への愛の発信を誘うメッセージがあふれかえる(梵天勧請)が、別にそれを微笑んでやり過ごしてしまっても構わないのである。

それをしなければ悟っているとは言えないということもない。悟りとは無条件に絶対的にあなたが愛を感じている状態であるが故に、条件はない。それは「優しい」とか「勇敢である」とか「幸せである」という状態に固定の条件がないのと同じである。

 

ただ、悟った人にはある程度共通する行動パターンや特徴はある。

ブッダは言った。

  • 「わたしは殺さない。すべてはわたしだと知っているから」
  • 「わたしは盗まない。すべてはわたしのものだと知っているから」
  • 「わたしは淫らな性の幻想に耽らない。それがなくても常に一体感を味わっているから」
  • 「わたしは嘘をつかない。自分で自分に嘘はつけないから」
  • 「わたしは酒に耽らない。酔わなくても楽しい気分でいられるから」

これが「五戒」といわれるものである。五戒は悟りを求める人の自由を束縛するものではなく、悟った人が実感を答えたものである。五戒を守ったからといって必ず悟りに到れるわけではない。それはひとつの道かもしれないが、唯一の道ではない。

 

あなたの悟りに幸あれ。

コメント

  • コメント (2)

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  1. アバター
    • 匿名
    • 2019年 3月 14日

    @JIN
    お返事ありがとうございますm(_ _)m
    前のブログ、ブックマークしてたのですが、なくなってて焦りました
    こちらのブログと共に、これからも更新楽しみにしています

  2. JIN
    • JIN
    • 2019年 3月 15日

    @匿名
    心から感謝申し上げます。ありがとうございます。
    お役に立てる記事を書けるよう、精進致します。
    今後共よろしくおねがいします。

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