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主体的であること。7つの習慣を理解するうえでとっても重要であり、きっとあなたもいろいろモヤモヤが晴れてスッキリ目が覚めること請け合いのスパイシーな教えについて解説します。
私の同意なくして誰も私を傷つけることはできない。
主体性を発揮する。
主体性発揮しようぜ!
――いきなり主体性とかいわれても、ちょっとよくわからないですよね。しかし、この章は7つの習慣を理解する上でかなり重要になってきます。
主体性を発揮するためには、まず主体的であらねばなりません。主体的であるというのはどういうことなのかを説明するために、まずはその真逆の【反応的である】ことについて説明します。
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反応的であるとは?
- 上司に怒られたから仕事に行きたくない
- あいつが気に食わないからイライラして仕方ない
- 人間関係がうまくいかない。ストレスで毎日が憂鬱だ
- こんな給料じゃ何もできない。将来が不安だ
- 時間がないからそんなの無理
……などなど、ブラック企業が多い現代ではわりと蔓延している言葉のように感じますが、この、
自分以外に自分の支配権を握らせてしまっている状態
こそが反応的な状態です。
この話をすると、殆どの人は脊髄反射的に
- そんなわけない!
- 俺は自律している!
- ならお前が俺の立場になってみろ!
と、嫌悪感と共に否定します。
特に最後のは最悪で、ほんと、使うことでデメリットしかない知性の欠片もない言葉です。きっとむこう10年はその「俺の立場」という不本意な現状が続きます。
ちゃっかり他者からの攻撃を防ぐ時の盾に利用しちゃっているということは、けっこう気に入ってるってことでしょう?
つまり、ばっちりコンフォートゾーンってこと。皮肉なことに不本意な状況が自我の存在認識と癒着してしまっているのです。そこから状況を転覆するのは並大抵の力ではできません。誰も自分の影から逃げられないのと同じで。
いや、仮にドラえもんみたいなのがいて、本当に立場が入れ替わったとして、もしその入れ替わった側の人がケロッとその状況をクリアしてしまったら、その瞬間持ち主のアイデンティティや存在意義は消滅します。僕なら恥ずかしくてその先どんな顔をして生きていけばいいのかわからなくなります。
反応的な人の言葉の裏にあるのは、責任の転嫁だとコヴィー博士はいいます。
自分には責任がない、自分の反応を選ぶことはできない。
と言っているのだと。
身に覚えがありすぎて心をえぐられます。まだ第一章だというのに。
とりあえず、なんか外的要因で心がウニみたいにトゲトゲわちゃわちゃしてしまうことってありますよね。(あくまで形の比喩です。ウニさんはもしかするとぶっちぎり主体的な生き方をしているかもしれません)
それでやりたいことが手につかなくなったり、塞ぎこんでしまったり、破滅的な行動をとってしまったりしたら反応的です。
自分以外の何かに自分の支配権を握らせてしまっている状態
です。
ここでもう一度、冒頭の引用文を。
私の同意なくして誰も私を傷つけることはできない。
つまり、反応的な人はその無責任な誰かの自我への侵入を、思いっきり許してしまっているということです。
誰が何と言おうと、どこかのタイミングで自分から支配されることを選択しているのです。
コヴィー博士の書き方が上手いのか僕はこの一文を読んでめっちゃ悔しくなり、反応的ではないとはどういうことか、強烈に関心を持つようになりました。
人件費など諸経費を削減しながら前年の売上もキープどころか100%以上の達成を強要する無能なバブル満喫組が溢れる現代です。
きっと周囲には、あなたのコントロール権を積極的に握ろうとする人、つまり
あなたに反応的であることを強いる人(ストレスメーカー)
が一人二人いるはず。洗脳者といったほうがいいのでしょうか。
まあ、彼らには自分の墓標に
「仕事なんだから仕方ない」
という大好きな魔法の言葉を金字で彫り込んで大満足で往生してもらうとして、僕たちは、主体性を保って自分自身の支配権を守りましょう(^^)
主体的であるとは?
私たちは自分の身に起こったことで傷つくのではない。その出来事に対する自分の反応によって傷つくのである。
主体的な人は、外からの刺激に対して、自らの価値観に基づいて反応を選択する。
コヴィー博士は
レッツ・ポジティブ!
とか言わないのです。
- プラス思考で!
- ポジティブな言葉を繰り返そう!
- 成功のイメージで!
とか言われ続けて、かえってそこに巧みに仕組まれた罠にはまりまくっていた僕にとっては衝撃でした。
物事に対する反応を価値観に基づいて選択する
仏教の空の教えに通ずるものがあるこの衝撃的な言葉で救われる人はきっと多いと思います。
感情がもし服だとするなら、
誰かに薄汚いぼろを着せられたり、むやみに華やかな服を条件反射的に着るのではなく、自分が着たいと思うフィットする清潔な服を選んで着てもいいんだよ
と言われたような、そんな安心感を僕は覚えました。生きるのがとっても楽になります。
今まで、どちらかというと外的要因のせいにしがちな、反応的なタイプだったのですが、
それってよく考えたら、自分自身の存在に関わる重大ごとを、何を考えているかもわからない誰かもわからない無責任な他人にぶん投げ続けていたのと同じことなんですよね。
この五感たしかな自分自身ですら煩悩の塊で思うようにコントロール出来ないのに、そんなもっとコントロール不能な、今までどんな人生を送ってきてどんな価値観を持っているかもわからない、いつ寿命が終わるともわからないような、同じく煩悩の塊に違いない他人に自分の支配を許すだなんて、ナンセンスにも程があると思いませんかっ!?
ちょっと言葉は悪いかもしれませんが、そう考えると
「だったら自分の責任のほうがいいや」
っていう発想に自然となりました。
この習慣がつくと、これまでいろんな成功哲学系の書籍でウンザリするくらい浴びてきた教えがやっと根を下ろすようになります。
もちろん、この先のあと6つの習慣を理解する上でもとっても重要な習慣になりますので、何度も何度も読み返されることをオススメします。
長くなりましたが、最後までお読み下さりありがとうございました!