重く、苦い夢を見ていました。
2019年末から始まったウィルスの流行に伴い、2020年春頃に職を失い、そこから約半年間、とくに何をするわけでもなくずっと部屋で過ごしていました。
最初の1ヶ月くらいは、仕事に拘束されなくなったことを喜びました。しかし次第にネガティブな感情が湧いてきて、6月15日(はっきりと覚えています)には、私は朝から布団を上げた寝室の冷たい床に大の字になって絶望に浸っていました。
焦り、不安、心配、恐怖……そういったものをごちゃまぜにしたような、それはもう嫌な気分でした。しかもそれは解析しようというあらゆるアプローチを避けてしまうのです。
まず私は、仕事がなくなったことが原因だと考えました。しかし、仕事をしようという気が全く起きません。その時には仕事はおろか何をする気も起きないような状態になっていました。
あれだけ毎日飽きもせず読んでいた奇跡のコースもまったく読む気が起きなくなりました。
鬱屈とした、空虚な日々でした。今になって一生懸命思い出してみても、家事をしている以外はスマホで(やりたくもない)ゲームをしていた、くらいしか記憶に残っていません。
気づけば私は、かなり具体的に自殺を考えるようになっていました。今となっては理解できませんが、当時はそれを極めて自然なことだと考えていました。
そんなある日のこと。
あれは忘れもしない、いつ雨が降り出してもおかしくない重い雲が流れる薄暗い日でした。
午前中から外にいたのですが、用事を済ませる頃にはひと雨来そうになっていましたので、雨宿りがてら公園の東屋に立ち寄りました。
するとベンチの下の暗がりに、本が捨ててありました。
「神へ帰る」でした。
私が何度も何度も読んだ本です。
思わず笑っていました。
そして、笑うこと自体かなり久しぶりだったことに気づいてまた笑っていました。
その時、なぜか「ああ、逃げられないんだ」と思ったのを覚えています。
そう、あなたが悟ったとおり、わたしからは逃げられない。なぜならあなたは永久にわたしの一部だからだ。不完全を知らないわたしの完全なる一部だ。
わたしには一なる愛し子しかいない。世界の喜びはあなた(これを読んでいるあなた)の喜びがあふれ出したものだ。それ以上でも以下でもない。当然のことながら、あなたの損失や犠牲が世界の喜びになるということもない。逆に誰かの損失や犠牲があなたの喜びになることもない。
だからあなたが光を見失ったとき、世界もまた光を失う。紛れもなくあなたは世の光だからだ。これはあなたを良い気分にさせたくて御世辞を言っているのではなく、事実を言っているだけだ。そしてこの事実は永久に変わらない。
すみません、もうちょっとで終わるんでもう少し続けてもいいですかね?
どうぞ。いや、ついうれしくなってしまってね(笑)
何ヶ月ぶりかに感じた興味にまかせて、本を開けてみました。すると、何度も読んだはずなのに、最初の数ページから内容がまったく違って見えました。
あまりにも違うので、表紙が同じだけの改訂版なのかと思い、最後のページを確認しましたが、それは明らかに私が読んだ本と同じものでした。
しかし、なぜか私は、その本を開ける前から、これまで読んできたのと内容が違うことを“知って”いたのです。
私の世界で、これまで厳粛に守られてきた時間の序列がほころびを見せた瞬間でした。
“死は存在しない”
そこに書かれていたのは、今まさに私が聞きたかった言葉でした。
私はかつて臨死体験をしたことがあり、そのことをよく知っているはずでした。
その日から、また奇跡のコースを読むようになりました。ほとんど一日中、ずっと奇跡のコースを読んでいました。
あと、リハビリ(何のための?)だと思って、ホ・オポノポノのクリーニングを無心にやるようになりました。
思えば、この頃から日常に気づきを与えてくれるハッとするようなメッセージがちらほら出始めました。顕著だったのは音楽です。これまで興味も持ったことがないような音楽が聞こえたと思ったら、その歌詞がかなり的確に私の今を描写していたりといったことが相次ぎました。(これは今でも続いています)
しかし、そこはホ・オポノポノの考えに則り、過度に反応することなくクリーニングをしてやり過ごすようにしました。
そのうちに、昔の伝で仕事の話がきました。
それは、正直もう二度とやりたくないと思っていた仕事であり、かつて私が「この世の地獄」と呼んでいた嫌な嫌な職場でした。
生活上の必要に迫られていたのもありますが、深いところで「どうにでもなれ」という気分だったこともあり、私はその話を受けました。
仕事が始まるまで1週間くらいありましたが、その間ずっと奇跡のコースを読むか、それ以外はクリーニングをして過ごしました。
半年間。
半年もあれば、働かなくても暮らしていける収益基盤を作ることもできたはずでした。最初の頃は私もそのつもりで張り切っていました。
しかし、叶わなかった。
「負け犬」とは自分のことを言うのだ、と思いました。
私はまるで処刑台に登るような気持ちで、半年ぶりの社会復帰の日を迎えました。
価値判断と抵抗のぎっしりと詰まった窮屈な半年間でした。
しかし、無駄ではありませんでした。これだけは言えます。いや、無駄だったどころか、終わってみるとなんかすごいことに気づいていました。
これは、あの半年間でたしかに手応えをもって理解したことなのですが、
①時間は幻想である
「時間は嘘つきだ」という感覚は、なんとなく以前からあったのですが、「時間は幻想である」と断言できるだけの確信はありませんでした。時間は幻想である。よって、時間の存在を前提としている全ては、0を掛けたら0になるのと同じように等しくすべて幻想である、ということを理解しました。
②信念の置き場所を間違うと大変なことになる
光から信念を外す、つまり光以外のものに信念を置くと、大変なことになるということが痛いほどわかりました。信念は常に極大出力で在るもので、それは必ず何かに向けられています。その性質上、「何も信じていない」というのはあり得ず、それによって信念を置いたものの結果から逃れられるわけではないことがわかりました。そしてそれは言葉どおり「置き場所」の問題、つまりシンプルな選択の問題に過ぎないので、間違った結果をもたらしたなら訂正すればいいだけ、ということもわかりました。
この2つは、今でも奇跡のコース(何十回読んでもふんわりとしか理解できなかった)の理解をかなり助けてくれています。
後日談も(もちろん)ありますが、長くなりましたので別の機会にまたお話しさせていただければと思います。
すべて完璧なプロセスだったね。
そう思います。
以前のあなたは条件反射的に抵抗していた。わたしと対話をするようになり、あなたは急激に光を感じるようになった。ところがあなたは光を強く感じていながら、感じたのと同量の抵抗をしていた。まだあの段階のあなたには、そのことが知覚できていなかった。過去の対話でも何度も抵抗がもたらす世界の歪みをなまなましく経験していたが、あれはまだまだあなたの抵抗の表層に過ぎなかった。
無理もない。その抵抗はあなたの理解しているような反発としてではなく、「あなた以外の何者かになろうとする」衝動としてあらわれていたのだから。
もちろん、わたしへの疑念もあった。「これは自分向けにマイルドにカスタマイズされた経験なのではないか」とね(笑)
あなたはそこで、まだわたしへの信念を撤回できるうちに、ある大きな選択をした。
一度光を忘れ、愛でないもの、光でないものを徹底的に味わってみようとした。わたしの声に耳を塞ぎ、光に背を向け、闇を徹底的に経験してみようとしたのだ。以前のわたしとの対話のなかで、抵抗をやめることの重要性を感じたあなたは、抵抗を完全に手放すために、全力で抵抗を味わう道を選んだ。
それがあの半年間だったのですね。
そう。結果的にあなたはずっと解決できなかった時間の幻想性を見抜くに至った。そして奇跡のコースの“自我(エゴ)”に関する話もこれまでとは比較にならないくらいにすんなり理解できるようになった。
あれが自我(のはたらき)か。たしかに「探せ、されど見つけることなかれ」ですね(笑)
ところで神さま(でいいのかな?)、いろいろと聞いてほしいことがあります。これからまた、よろしくお願いします。
(何でもいいよ笑)こちらこそ!!