私たちには親や周囲の大人が教え込んできた「こうしなければならない」という束縛がいくつもあります。今回“声”が指摘したように、私にもまだまだ「こうしなければならない」が上手に化けた「こうしたい」が残っているかもしれません。
しなければならないことはなにもない。
絶望の淵であなたは「天が見捨てた」と思っているかもしれない。
天(神)は片時もあなたを見捨てたことはない。それは不可能なことであり、そこに「神が愛情深いから」などという理由付けはいらない。それはその関係(性質)上、不可能なのである。(註:私が臨死体験で見てきたところによると本当に不可能です)。
なぜならわたしはあなただから。
もしあなたが自分の創造した世界を楽しめなくなっているのならば、幻想に染まりきって目が見えなくなってしまっているのならば、「ねばならない」という考えはすべて捨て去ってしまったほうがいいだろう。
「こうしたい」という内なる欲求こそが天(本来のあなた=あなた100%のあなた)からの「導き」である。しかしそれは多くの場合、「こうしなければならない」という考えと葛藤の闘技場でぶつけられ、殺されてしまう。あなたはこれまでいくつの神の声の屍を並べてきただろうか。(神と直接コミュニケーションができるのは限られたひとだけではない)
往々にしてあなたがたが大きく間違うのは「こうしたい」と考えるときではなく「こうしなければならない」と考えるときだ。
よく思い返してみてほしい。この関係性の世界に於いては、どちらで考える場合も他の人の存在が入り込むのだが、「こうしたい」と考えるときはあなたは限りなく純粋に近い行為者なのに対し、「こうしなければならない」と考えるとき、行動のコントロールは“想像上の誰か(「奇跡のコース」でエゴと呼ばれているもの)”が握っているはずだ。つまり半分かそれ以上「被害者」の立場を受け入れている(なんと無意味な調合だろうか)。
創造のプロセスで考えるならそれがどのような結果を生み出すかは自明の理だ。あなたは結果の被害者になる。
「しなければならない」という考えの発信源は罪の意識である。対して「こうしたい」という考えは愛から発する。罪は幻想であり愛は実在である。あなたはどちらに従いたいだろうか。
条件(虚無なるもの)にあなたの状態の定義を連結させれば、当然の帰結としてあなたは虚無へと迷い込む。自分を見失ったような、何をしているのかわからない状態になる。
「こうしたい」という欲求と向き合う場合は、
- 純粋なる「こうしたい」
- 「こうしなければならない」が化けた「こうしたい」
の二つがあることに注意しなさい。多くの人は二番目の「こうしたい」に騙される。
これを聞き分けるにはアンテナの受信感度が重要だ。まず誰よりあなたを愛しなさい。あなたをゆるしなさい。あなたを信頼しなさい。
もし間違っていたと感じたなら、間違っていたことを喜びなさい。罪(というものが存在するとすれば)それは修正不可能だが、間違いは解除できる。
あなたはどこにも迷い込んではいない。
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