奇跡講座や般若経典を読んでいると何度も出てくる、
- 幻想
- 実在しない
- 実体がない
という言葉ですが、それらを当たり前のように実存として捉えることに慣れきっていた頃はまったくといっていいほど理解できませんでした。
量子物理学的な解説がされることがありますが、頭ではなんとなく理解できても「だから?」といった感じ。小さい頃からなんかこうガツンと来なかったです。
天国を見た後で、それらについて私の感覚からはっきりとしっくりといえる言葉で表現すると、天国とは何の関係もない、天国にはなかったなんか不思議なもの、異質なものという感覚です。
天国は、どう考えても神様としか思えないような光源から放たれる光で満ちており、その光は無限の祝福と歓喜と愛と生命です。
あなたもその光とひとつでありまたすべてです。
すべてであるから何の恐怖もありません。
あなたがすべてであるから、距離がありません。
「あっち」と「こっち」がないので当然時間という概念もありません。
時間という概念がないので、天国は当然のように永遠です。
あなたがこの世界で欲してやまない永遠はなんとあなた自身の本来の属性なのです。
それはあなたの真名といっても過言ではないくらい、あなたと切っても切り離せない属性です。皮肉ですね。
永遠なる天国とは違ってこの夢の世界ではすべてが移ろいゆく特性を持っています。
今善なるものが次の瞬間には悪になったり、
今あったものが次の瞬間にはなくなったり、
今の幸せが次の瞬間には不幸に転じたり、
今の情愛が次の瞬間には憎悪に転じたりします。
これはよく観察してみると明らかなのですが、それらはあなたの信念の肩入れがなければ実在っぽさを保つことができません。
だから、信念の傾注を止めると、それらはまるで流れる川の水のようにころころと様相を変え、一瞬たりとも止まっていることがありません。
それらに信念を注ぎ込んで、それらとリンクすることは、夢を見る主体であるはずのあなたに、その夢の登場人物になったかのような錯覚をもたらします。
支離滅裂で矛盾した混沌の激流の中で溺れながら、いったいどこに平安を見出だせるというのでしょうか。
現象界というものは、
星や、眼の翳、燈し火や、
まぼろしや、露や、水泡や、
夢や、電光や、雲のよう、
そのようなものと、見るがよい。
(「般若心経・金剛般若経」中村元 紀野一義訳注 135頁)
移ろいゆくもののどれもあなたには相応しくありません。
天国のあなたを知る私には、天国以外にあなたに相応しいものなど何ひとつないように見えます。事実、無いのです。
私もまだ、気がつけば天国を忘れていることがあります。
この現象界の何かに信念を注いで、それを意識で掴んでいるときです。
そういうときは往々にして、もやもやしています。
もやもやするでしょうね。天国とまるで関係ない、異質な、移ろいゆく属性を持つ幻想に自らを同化させるなど、不自然極まりないことですから。
どの瞬間も、天国についてのみ警戒をしていたいと思います。
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