天国を思い出そうとしたきっかけ

あれは忘れもしない2022年のことです。

2月にそれまで7年勤めた職場を事故的に辞めることになりました。

派遣社員でしたし、とくにその職場に愛着があったわけでもなく、むしろ「辞めたいな」とずっと思っていたので、多少驚きはしましたがそれで落ち込んだりはしませんでした。

突然宿った希死念慮

ところが、次の職場を探している間に、胃腸の不快感に苛まれ、それを皮切りにしてあれこれと考えなくてもいいことを考えてしまったのです。

いわゆるうつ病という状態です。

次から次へと不安や恐怖や後悔が溢れ出し、私は現状に絶望するようになりました。

 

そして、気がつけば当たり前のように「死にたい」と願うようになっていたのです。

 

実在しない時間という概念によって紡がれた呪いに信念を置いてしまった結果訪れた希死念慮(自殺願望)です。

 

今になってこうして文章にすると、「いや考えなくてもいいことを考えたからやろ」と簡単にわかるのですが、当時はいきなり宿った(と感じた)強い希死念慮にかなり動揺しました。

「死にたい」

ただ、私は天国で死が実在しないことを経験済みでした。

 

あまりにもしんどくて心療内科にも行きましたが、お医者さんの前で希死念慮のことを話しながら、

「私はいったい何を話しているんだろう?」

「そしてこのお医者さんも何を答えているのだろう?」

と疑問でした。

結局その1回だけで行くのをやめてしまいました。

強い抗うつ剤も処方されましたが、結局自分であれこれ成分を調べてサプリで対処しました。

 

解決は、救いは此処にはない。

死は実在しない。実在しないものは不可能だし、実在しないもので救われるということはない。

事実、かつて死んだ時もそれは何の救いにも解決にもならなかった。

 

ならば私は何を「したがって」いるのだろう。それこそ「必死」になって分析した結果、それは

「苦痛の多いこの夢を終わらせたい」

という願望だとわかりました。

 

そういうことなら死は的外れです。夢の終わりは目覚めであって死ではありません。

夢を夢で取り替えてもそれは所詮夢です。

 

頭でいくら考えても理解はできませんでしたが、私はそれを知ってしまっていました。

ならば具体的にどうすればいいかはわからないけれど、少なくとも今捏ねている概念の中には救いはない。

答えのない場所でずっと答えを探している「これじゃない」感だけはずっとありました。

 

もどかしさの中で段々と悔しくなってきて、「ええいこうなったら意地でもこの世界で天国を見てやる」と空を睨みつけるようにして決意しました。

「天国を見たい」

天国を見るにはこの夢から覚めるしかない。

ならば、どうすれば目覚められるのか。

 

まずは実際に見たあの天国をはっきりと思い出すことだ。

おもしろ体験談レベルに成り下がり、飲み会のネタくらいにしかしてこなかったあの天国を、もう一度はっきりと思い出す。

で、どうすれば……?

 

天国ってどんなのだったっけ?

光、愛、すべて。

 

天国で私どんな感じだったっけ?

光、愛、すべて。

 

私は光でしたし、無限の愛でしたし、またすべてでした。

 

「私は光であり愛でありすべてである」

とりあえずこの言葉を繰り返しました。

悪夢の中で、それが夢だと気づいた時「これは夢だ!」と宣言するように。

 

私は光であり愛でありすべてである。

これは天国で私が見たままの本当のことです。

一瞬の後には覆ることもある、この支離滅裂な世界のあらゆる真実の仮初の真実性とは明らかに質の違う、永遠に揺るぎない真実。本当すぎる本当のこと。

 

この短い言葉を何度か繰り返した結果、昨日まではあんなにめちゃくちゃに乱れていた心が一気に鎮まり、あの臨場感が少しだけ戻ってきていました。

そこでやっと気づいたのです。私は今も天国にいるのだと。

 

以上が私が天国の記憶と向き合うようになった経緯です。

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